2016/04/17    13:00

桜の樹の下の「屍体」について考える――生命のグロテスクさと、国を守るということ

「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
 
春が来るたびに、思い出される小野小町の有名な和歌だ。衰えゆく自分の美貌を、はかなくも散りゆく桜の姿に重ねて詠んだ。桜は、その短い命の限り、精一杯に爛漫と咲き誇り、そして潔く散ってゆく。その姿は、人間のこの世の命の短さ、はかなさと対比される。戦時中の唱歌としてもっとも有名なものの一つである「同期の桜」が、国の防衛のためにその身を捧げた特攻隊の歌であることも、偶然ではないのだろう。
 
満開の桜は、この世のものとは思えない、妖艶な美しさをたたえる。大昔から、日本人はその美しさに心を奪われ、「いっそ桜がなければ、心はもっと穏やかでいられるのに」と詠んだ歌人もあった。そうした美しい花であるから、桜に対比して語られる人間の生き様は、ある種、美化された物語になりがちだ。
 
だからこそ、作家の梶井基次郎のように、「桜の樹の下には、屍体が埋まっている!」と叫ぶ人があれば、なんとも奇異で薄気味悪く、場違いな印象を受けるだろう。この美しい桜を楽しんでいるときに、「屍体が埋まっている!」とはいったい何事かと。
 
しかし、梶井がこの作品「桜の樹の下には」で語っている内容は、春の美しさに隠れて見逃されがちな「真実の半面」を明らかにしているように感じられる。そして、梶井がなぜ「桜の樹の下に屍体が埋まっている」と確信するに至ったのかを見ていくことは、今日の社会の在り方について考える上で重要な視点を提供しているように思える。
 
今年も、桜の季節が過ぎ去っていった。目黒川を彩る桜の木々を見ながら、私はなぜ梶井が「桜の樹の下には、屍体が埋まっている」と言ったのかを考えてみた。ここからは、そのささやかな分析である。
 
本作品で梶井が諄々と語っているのは、自然の美しさと同居している、自然の醜さ、汚らしさである。「桜の樹の下に屍体が埋まっている」という結論に達した大きな要因として、梶井はある日、谷を散歩していた際に、ウスバカゲロウの大群に遭遇した際のことを回想している。
 
ウスバカゲロウは透き通った羽が特徴的なトンボに似た昆虫で、梶井は谷底から空に向かって飛んでゆくその姿に、最初は美しさを感じたらしい。「薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、渓の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた」と、ギリシャの美の女神の名前まで持ち出して、称賛している。また、「彼らはそこで美しい結婚をするのだ」とも述べている。
 
しかし、「美しい結婚」が「惨劇」に変わるのは、その直後である。梶井はそこからしばらく歩いているうちに、水面を「何万羽とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体」が浮いているのを目にした。産卵を終え、次の世代へと命をつないだおびただしい数の昆虫が、そこで息絶えて、水に揺られていたというのだ。
 
一見すると、目を覆いたくなるような「惨劇」だ。しかし、そこで梶井が感じたのは、ある種の不気味な恍惚感だった。梶井は「墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった」と、心情を吐露している。
 
この部分をストレートに読むだけなら、昆虫の大量死を目撃して喜ぶ梶井が単なる変質者のようにしか見えない。しかし、重要なのは彼が「変質者のような残忍なよろこび」をなぜ味わったのかである。梶井は次のように述べている。

俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。

ここでは、「平衡」という言葉がカギになる。ウスバカゲロウの飛ぶ姿は美しいかもしれない。しかし、その生命の美しさは、その反面の醜さ――あるいは、死の「惨劇」――があってこそ、成り立っている。美しさだけでは、この世界は完結しない。その反対にあるものを見出して、はじめて「平衡」が実現する。確かに、その光景は「惨劇」であり、「憂鬱」かもしれない。しかし、その「憂鬱」があってこそ、バランスが取れ、調和が生まれ、「俺の心は和んでくる」ということなのだ。
 
ここまでくれば、彼が「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という確信に至った理由も見えてくる。桜の妖艶な光輝を放つ美しさがこの世に存在する限りは、その反対にある醜いものも、どこかに存在していなければならない。そうでなければ、この世界のバランスが取れない。だからこそ梶井は、本作品の冒頭で「桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられない」と述べつつも、「俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった」と、複雑な心境を口にしている。不安だったのは、桜の美しさと平衡している要素が見当たらなかったからであり、それによって彼が心の調和を失っていたからだ。
 
そして、調和を取り戻すための結論を、彼は「屍体」に見出した。まるで、理論上、存在しているはずの物質の在りかを突き止めようとする科学者のように。アインシュタインの理論が事実であることを確かめようとする研究者のように。梶井は「透視術」を使って、桜の樹の下に埋まっている屍体を発見する――あるいは、「妄想」する。桜の花がこれだけ美しいなら、その下には醜い屍体があるはずだ、いや、なければならないと。
 
梶井によれば、桜が美しい花を咲かせる理由は、次のようになる。

馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪まらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。

何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。

桜は、自分の下に埋まる様々な屍体から「液体」を吸い上げて、それによって美しい花を咲かせている。桜が吸い上げているものは「養分」という意味にも取れるが、ここではそれよりももっと本質的な、生命のエネルギーといったニュアンスを感じる。たとえ、いかに表現がグロテスクであるとしても。
 
いや、むしろ、生命の本質とはグロテスクなものではないのか。そして、「自然の美しさ」というステレオタイプなフレーズを語ることにかまけて、その本質のグロテスクさを忘れるなと、梶井は警告しているのではないのか。
 
「散りゆく桜のように、人生ははかない」と言う時、私たちは「死」というものを、桜の花びらに引き付けて、美化する。しかし、「死」の実態とは、かつて健康に動き回っていた人間が朽ち、やがて動かない死体になり、そして腐乱して土に還っていくというグロテスクな光景を意味している。いくら、「桜のように」と言ったところで、その実態は変えられない。
 
現代社会は、男性誌も女性誌もテレビ・ドラマも、恋愛を美化して語り、「セックスは愛の表現」というステレオタイプに染まっている。週刊誌の中吊り広告を見れば、「いくら歳を取っても、いつまでも、たくさん“ヤレる”ことが幸福だ」という価値観が読み取れる。女性誌ならば、「彼とベッドでもっと愛し合うためにはどうしたらいいのか」という具合か。しかし、セックスという行為そのものは、修辞を排して言えば、「体液の交換」以外の何物でもない。それは、ネバネバした液をお互いにやり取りする、汚くて、臭い、動物的なものだ。たとえ、「愛の行為」といくら言ったところで、その実態は変えられない。
 
このように、生命の本質とは、グロテスクなものである。まるで、桜の樹の下に屍体が埋まっているように、美しさの反面には醜さがある。梶井はそのことを、目をそむけたくなるような表現で、教えてくれている。このことは、今日の社会情勢を見渡す上でも、示唆に富む。
 
政府は昨年、「平和安全法制」を成立させ、自衛隊が外国の戦闘に関与する道を開いた。集団的自衛権そのものは、どの国も有している自衛権の一部であって、それを認めることそのものに問題はないとしても、「戦死者が出る」という野党の姿勢にまともに向き合わなかった政府の姿勢には疑問が残る。
 
たとえ法案に、「平和」や「安全」という名前を付けたところで、「戦争になれば兵士は死ぬかもしれない」――言い換えれば、「生身の人間が死体になるかもしれない」――という現実は変えられない。だから、国防政策は、亡くなった兵士をいかに弔うかという議論を避けては通れない。
 
にもかかわらず、自衛官の戦死にいかに向き合うかという議論は、盛り上がりを欠いたままだ。安倍晋三首相は靖国神社への参拝を公約にしていたが、2013年の年末に参拝したきり、その後は背を背けている。しかし、国を守るために命を捧げた人びとをいかに弔い、顕彰するかという視点がないままの国防の議論は、片手落ちとは言えないか。
 
あるいはまた、先の大戦で日本軍の兵士を相手した慰安婦の問題は、今日では「女性の人権」という美しい言葉でコーティングされて語られる。初めは、「慰安婦は強制連行されていた」と言っていた陣営が、連行説が根拠薄となったために持ち出したフレーズだ。しかし、今やこれに、歴史問題で「タカ派」とされた安倍首相さえも相乗りしている。昨年の8月14日に発表した戦後70年談話でも、「私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます」と、この問題を意識したくだりがある。
 
一方で、「女性の人権」というもっともな言葉が、見えづらくしてしまう現実もある。それは、兵隊を海外に送る必要がもし生じた場合に、彼らの性の問題を避けて通ることはできないということだ。「女性の人権」といくら言ったところで、「戦場の兵士と性」の問題が消えることはない。「女性の人権」が大切であることは論を待たないが、しかし、戦地に赴いた兵士に、「我慢せよ」と言って簡単に解決するような問題でもない。それは人間が人間であり、性欲を持つ生身の人間が戦地に赴く必要が生じ、この世界から戦争がなくならないうちは、変わることがない現実なのである。
 
かつて、橋下徹・大阪市長(当時)が、「慰安婦は必要」と発言し、彼の政治家としてのキャリアに傷がついたことがあった。この発言はマスコミから大バッシングを受けるだけでなく、米軍側からも不快感が伝えられた。言葉づかいは多少、乱暴な面があったとしても、戦場の性の問題を避けては通れないという点を明らかにする意味合いはあったと言える。この問題は、「強制連行説」を擁護する側も、否定する側も、考えていくべきことではないだろうか。そこには、「女性の人権」という美しい言葉や、「強制があったかなかったか」という二分法では、網の目をすり抜けてしまう現実の問題が存在している。
 
あたかも、散りゆく桜に人生を重ねるように、私たちは物事の断片を切り取って、美化して語りがちである。そして、かく言う私自身も、その責から逃れることはできない。しかし、美しいイメージや言葉、抽象化された概念にばかり気を取られていては、梶井のように心のバランスを失ってしまう。均衡を保つためには、梶井の言葉で言えば、「惨劇」が必要になる。それは、生命の本質であるグロテスクさや醜さに気づくということなのだろう。
 
梶井は桜の樹の下の「屍体」を想像したが、考えてみれば、この地球上にはこれまで、人間も含めて数え切れない数の生き物が暮らしてきた。この世での命を終えた彼らの肉体は、やがて腐乱し、あるものは白骨化し、次々と土に還っていった。桜が養分を吸い上げている大地は、言ってみれば、おびただしい数の屍体の積み重ねである。そして、われわれ人間も、気づくか気づかないかにかかわらず、そのおびただしい「屍体」の上で今日も暮らしている。

私たちは、この世界の生命の一部である。それはつまり、「屍体」の一部でもあるということである。それは、醜くも、美しい、この世界の真実だ。

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